ゆるくぬるくまろやかに

個人的な観劇記録と、思った事感じた事の書きとめ。

叢雲晴れる空に響

刀ミュ、つはものどもがゆめのあと 大千秋楽お疲れ様でした。

ロスれるほど入れていないのですが、やはり連日のお祭りムードが終わってしまうのは言い表しようのない寂しさを感じます。

 

さて。

作中に触れる感想的なものを殆どつぶやいてないなと思ったので、ぶつぶつと零して遺しておこうかと思いもそもそと。最近ほんとオンボロで、うつらうつら考えていた事がうつらうつらと消えて行く…。こわ。

基本的にきちんとした考察よりも、杜撰な史実漁り+自己編集+妄想で成り立っているので、話し半分にどうぞ。

 

 

まず前提として、私はつはもの組の中で小狐丸はダントツに存在が不確かな刀だと思っています。

 

『時の帝の命を受け、三条宗近が小狐の精に相槌を打ってもらい鍛えられた刀。そして帝は、その刀で怨霊となった道真公の雷を斬ったとされる。』

ツッコミどころ満載だし、時代を考えるとそれじゃ宗近打ってないじゃん!てなるけど、ともかくとしてひゅ~~~~!!!ってなる。

血沸き肉踊る系のひゅ~~~~!!!な逸話を持つ刀は持ち主を含め物語になりやすいんだと思います。

そして刀はあるじを変え、場所を移し、時間と共に物語を纏って行き、物によっては姿を消し、重ねた時間の分だけ曖昧に、けれどその時間の分だけ確かになって行くのではないかなと。

 

語られる全てが『真実なのか』は大きな問題ではなく、人々に愛され語られ、想いを馳せられた事が重要なんだろうなぁ。

ちょっと極端かもしれないけど、二次創作に近い感じ?

だからこそ現存しなくても、存在しなくても『今』があるのかなーなんて。

 

付喪神は、物に宿る神様と言われています。

長く大切に使い込み、想いが重なり神となる。

しかし現存しない・存在しない刀は、その原理から外れてしまう。でも人の想いは重くて深くて、思い込む事ができる。死者が本当の死を迎えるのは、その存在を忘れられた時。なんて耳にするけど、つまりは死してなお傍にいてと願う気持ちを表す言葉だよなーと思うと、物語から生まれた刀が2018年の今でも名前を知られているって言うのは、その刀を生かすに値する事なんじゃないかな。

人々の耳に、声に、したためられた書に遺された『小狐丸』は、人がいるからこそ今がある。故に小狐丸は『ぬしさま♥』なキャラなのかなーとか、勝手にぐるぐる考えていました。

 

ところで、雷を斬った逸話が私は個人的にとても好きで、刀剣乱舞(曲)で『金色の野生 踊れば ほら 雷鳴轟く』ってとこにむちゃくちゃひゅ~~~~!!!!ってなる。

道真公の怒りを当時の人々は本当に恐れただろうし、後の世でもやっべーわまじこえーわ…ってなったんだろうなと思うと、その雷を斬った『小狐丸』もしくは後にそう呼ばれるようになった刀と言うのは余りにかっこいい。

 

とまぁ前提が長くなりましたが、小狐丸はつはもの組の中で最も存在が曖昧で、本当に存在していたのかどうか分からなさで言うと、今剣と岩融に匹敵すると思っています。

ここまでが前提。

 

つはものどもがゆめのあと は、あどうつ聲から幕が開きます。

依代の刀脈は打つ。はったはった ちょうちょう はったはった ちょう。

叢雲晴れる空に響。

表に彼の名 裏には我が名。

 

叢雲とは高積雲の事。

大きく綿をちぎったようなふわふわで、上は真っ白で下がほんのり灰色。

まるで小狐丸の御髪のような雲。

小鍛冶から始まるつはものは、『存在』を問うストーリーなんだなとその時点で分かる仕組みと言うか、しょっぱなから盛大なネタバレじゃん!てなるんだけど、これ何回か見ないと辿りつかないじゃん!すごい!

 

ところで作品として、古い時代を描いているからと考えるのは当然なんだけど、なんで『聲』をわざわざ旧漢字にしたのだろう。

と思い、聲の成り立ちを調べてみた。

「声」という漢字の古い字体(「聲」)を、上下に分けてひもときます。
上の左側は「声」、そして右側を「殳(るまた)」と呼びます。
「声」と「殳」は、石で出来た楽器をつるして打ち鳴らす様子を描いたもの。
その下に添えた「耳」は、その音が耳に届いている、ということを示します。
そこから「声」という字は「おと、ひびき」という意味をもつようになりました。
さらに、人の発する「こえ」や「ことば」、
人の耳に入る「うわさ」や「ほまれ」といった意味にも使われるようになったのです。 

 *1

ますますこー、ね。

人の記憶に遺され続けたからこその『小狐丸』なのかなーと。

作中で岩融に自分の存在の不確かさの不安を吐露された時、小狐丸は明らかに困惑していて、見ようによっては「そんな事考えた事もなかった」だし、「(私は最初から存在しないから)そんな事考えた事もなかった」でもあって…。

どっちの方がいいの?と聞かれても、分からない。

北園くんの演じる小狐丸はどこか幼なさや恐れがあって、何て言うかまぁぶっちゃけてしまうと私は若干の解釈違いなんですが、あそこは他所の本丸なんでね。あ、そちらさんの小狐丸はそんな感じなんスねって思っているのと、個人的に刀剣乱舞の面白い所はプレイヤーの数だけ本丸があってその数だけ解釈がある事だと感じているので、解釈違い=ネガティブとは限らない。他所の本丸を見せて貰える事に感謝。

ともかく何が言いたいかって、あのどこか幼く恐れを伺わせると言うか、未成熟というか…千年刀の割に物を知らない印象を受ける『小狐丸』は私の想像にはない小狐丸なので行動や考えが読めないのと、ミュ本丸の小狐丸は自分は現存しない刀である事や90%くらいは物語の中の刀だと言う事を知っているのか、知らないのか、受け入れているのかどうなのかが分からない。

だからこそ、いつかそれが知れたらいいなと思っているし、例えばそれが意図せずに出ている物であるなら、北園くんの小狐丸がどう変化していくのか楽しみだなとも思うのでした。

おわり!